公益社団法人日本歯科技工士会

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『日本歯技』2020年12月号巻頭言



社会が共通にもつ、知識、考え方

 スポーツの世界では、頻繁にルール変更が行われる。その中でも、決められたルールの範囲内で、いかに効率よく、良い結果を出すかを考える者と、もう一方には、いかにルールに記載していないことを見つけ、結果を出すかを考える者がいると聞いたことがある。双方とも間違ってはいないし、ルール違反をしているわけではない。そこで、記載がなかったものを新たに加えるなどすることで頻繁にルール変更がなされ、その都度さらに細部にわたる記載が必要となり、その量が膨大になっているのが現代のスポーツの世界であるようだ。
 しかし、こうしたことは、どの世界にも同様に見受けられる。法を作成し、さらに細則を定めても、そこに記載のないことを見つけ、実行する者はいる。法や細則を作成する際、常識的な解釈(その社会が共通にもつ、知識、考え方)をもとに熟慮しても、そこに表記されていないことは「行ってもよい」と解釈し、実行する者がいるのも事実である。それは違法ではないが、適切かは疑問である。
 そこで、性善説と性悪説のどちらが正しいのかを考えてみよう。性善説が成り立っているなら、なぜ法やルールがあるのか。むしろ性悪説がもとにあるから、法やルールを決める必要があると考えた方がわかりやすいとも思う。
 調べてみると、性善説の意味は「人は本来、善であり、努力次第で立派になり得る」とあり、「善」とは「道徳的に正しいこと」とある。一方、性悪説の意味は「人は本来、悪であり、努力することによって善を獲得できる」とあり、ここでいう悪とは「悪い」という意味ではなく「弱い」とか「欲望」ということで、「人はそもそも弱い存在で欲望に振り回される」という意味であると示されていた。双方とも「努力をすべき」という意味では同じことを言っているのである。
 常識的な倫理観に訴えても通じないのが世界の常識である現代において、個人個人の道徳観をいったんは脇に置いて、常識的な道徳観をもって歩んでいく社会であってほしいと願う。

 

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